崩れゆく、断崖の古路。 日原トンネル旧道を歩く(3) 2009.03.01
この回から、いよいよ1979年まで使われた日原トンネルの旧道に入る。
しかし、古道を歩いているときに見た、ただただ凄いとしか言いようの無い大崩壊地。
嘗ての道は隧道をもって突破するが、我々にその方法は許されない。
旧道入口より50m程進んだ。
道の両サイドからは枯草が迫ってきているものの、路面状況は比較的良好である。
道幅も、何とか車同士が離合できるほどの幅を保っている。
前方にあるのは、用途を失ってもなおそこに立ち続ける青い標識だ。
標識の支柱は、真っ赤に錆びていた。
しかし標識自体はその青さを十分に保っており、まだまだ現役でも使えそうである。
背後の崩壊地。高さはゆうに150mを越える。
この写真で見る限りは斜度45度。物凄い迫力だ。
写真ではこの凄さをあまり表現できないのが、誠に口惜しい。
現日原トンネルの旧道における唯一のトンネル、(旧)日原隧道である。
延長は397mで、鉄道トンネルのような形をしている。
トンネル内は先の標識が示している通り右にカーブしており、先を見渡すことはできない。
もちろん幅は1車線分しかなく、隧道内で車両同士が鉢合わせにでもなったら、かなりの修羅場と化すことが想像できる。
ただ、この旧道が使われていた昭和中期の交通事情を考えると、恐らくこれでも十分事足りたのであろう。
なお、信号等や停止線などの痕跡は、もともと無かったのかそれとも消えてしまったのか、見つけることは出来なかった。
更に、この探索の1〜2年前にはあった筈の「日原トンネル
397m」という標識は、支柱ごと無くなっていた。
隧道脇には、この隧道の旧道、つまり旧旧道が延びている。
当たり前だが、その荒廃度は旧道よりもさらに増しており、舗装されているのかどうかも分からない状態だった。
隧道はご覧のとおりバリケードがされており、この先へ進むには必然的に旧旧道を行くことになる。
ご覧のとおり、完璧なディフェンスである。
もともとは柵だけ設置されており通りぬけが出来たのだろうが、後になって金属製の網も追加されたと言う感じである。
つまりは、もう空気以外の何者も通す気は無いと云うことだ。
…と書いたが、調べてみると今でもこのバリケードは開閉可能であることが分かった。
つい最近にも開けられていたらしく、どうやら完全に見放されたわけでも無いらしい。
発破警告の合図と書かれた文字もかすれ気味の看板が、このトンネルの封鎖の理由である。
「立ち入らぬように」と書かれてはいるが、超軟体人でもない限りこのバリケードを空身で通り抜けるのは、無理だ。
私は東日原バス停でバスを降りた後、バスを運転していたベテラン運転士にこの旧道のことについて訊いてみた。
「途中にトンネルがありましたよね。」と私が訊くと、運転士氏は何故知っているのかという顔をした後、
「ああ、あったな。真っ暗で狭くて途中でカーブしていた。対向車が来ないか怖かったよ。」と答えた。
その先はどんな道だったかと問うと、「断崖絶壁で、狭かった」とのこと。
新日原トンネルは、やはり出来るべくして出来たトンネルなのだなと思った。
さて、隧道脇から旧旧道へと歩を進める。
かなり荒れており、端から見ると完全に放置された道なのだが、これでも数年前に綺麗になっているのだ。
それが人為か自然の所作なのかは私には分からないが、ともかく「まだ」歩くには支障はない。
旧道より40mほど進んで、ここで旧旧道も舗装されていたことが分かった。
さらに破壊されてはいるもののガードロープが残っており、ここが車道だったことを強く印象付けた。
だが、その先はもうアウト。道が完全に埋もれている。
旧道分岐からここまでの約50m余りが、400m近い隧道を巻く旧旧道においての、僅かなまともな区間であった。
ここまでならば、危険を冒さずしても廃道の雰囲気を味わうことができる。ここまでならば。
死屍たる道の姿である。
路上に積み重なった岩々の上に生えている苔が、崩落からの長い月日を物語っている。
崩れかけたコンクリート製の擁壁が、辛うじてここに道が存在したことを教えてくれる。
手がかり足がかりは豊富にあるのでホイホイと進むことはできるが、足を乗せるとぐらつく岩もあるので油断はできない。
このような岩の場面が50m程続くと、今度は完全に道が斜面と化してしまった。
それでも石や岩の瓦礫からなる斜面だったので、何とか進むことが出来た。
道無き斜面を進んで行くと、ついに現れた。
旧道踏破第一の難関、大崩壊地だ。
嘗て何千もの車や人を通した道…は、跡形も無く消えていた。
まるで巨大な河原が、そのまんま斜め30度に回転したような景色だ。
この斜面は、単に自然に因りこうなったという訳ではなく、やはり鉱山が絡んでいるらしい。
古い採石場の跡だと言うが、今ではもうただの瓦礫の海だ。
…まあ何れにせよ、どうにかしてこれを越えねばその先は無いのだ。
我々は瓦礫を落としながら、大崩壊地に踏み込んでいった。
…そんな大崩壊地にも、偉大な(?)先人達が残した攻略法が存在する。
お分かり頂けるだろうか。踏み跡が、この崩壊地には存在するのだ。
ただその踏み跡も、不明瞭になっていたり途絶えてしまっていたりする箇所がある。
それでも、この踏み跡を見つけられるか否かでここの難易度が大きく変わることは、間違いない。
見つけるまでが大変なのだが、見つけてしまえばあとはそれに沿っていくだけなのだ。
…それでも、我々が進むと大小の瓦礫が下へと落ちていく。
その落ちる音はしだいに小さくなっていくが、決して途切れることはない。
怖くない、なんて事は全くない。
下を見ると、ここから河原まで50m以上の高低差が存在することが分かった。
滑落なんぞしようものなら、顛末は云うまでもない。
上を見上げると、ご覧のとおり。
上もまた、かなり遠いところまで瓦礫が続いている。
距離感が掴みにくいが、凡そ200m先には屏風のような大岩が、物凄い威圧感をもって存在している。
落石なんぞ起きようものなら、顛末は云うまでもない。
この崩壊地には、雨裂(うれつ)と呼ばれる割れ目が幾つか存在する。
雨風による浸食作用により出来たもので、雨が降ったりするとそこに水が流れるのである。
そこを横断する箇所は踏み跡が途切れているため、自力で足場を見つけて雨裂を越えなければならない。
ここはそのうちの一つ。一見手がかりは沢山あるように見えるが、予想以上に難儀した。
瓦礫の一つ一つが小さいため、手をかけても直ぐに崩れてしまうのである。
それでも、ここを越えるとまた何も無かったかのように踏み跡が復活した。
大崩壊地のラスト(東側)50mは、踏み跡らしい踏み跡が無い。
角度はそれ程でもないのだが、瓦礫は皆小さく心許ない。
そしてなによりここから先は、自分の感覚で進路を決めていかなくてはならないのだ。それが一番恐ろしい。
振り返る余裕など無い。慎重に慎重に、数多の瓦礫を落としながら、我々は進んで行った。
幸い瓦礫は、最後まで我々の体重を支えてくれた。
大崩壊地を、突破した。
ラストの50mは、本当に怖かった。
この200mの突破に、約15分掛かった。
大崩壊地を越えても、旧旧道の痕跡は見当たらない。
どうやら、完全に山の斜面となってしまったらしい。
それでも当たりをつけて進んでいくと、少し先にコンクリートの物体が見えた。
我々は、そのコンクリートの物体へと歩を速めた。
因みにここも瓦礫の斜面だが、大崩壊地に比べれば断然歩きやすい。
お久しぶり、日原隧道。
凡そ25分ぶりの再会である。
小奇麗な日原側坑口とは対照的に、こちらの氷川側坑口は…半ば瓦礫に埋もれていた。
こちらもネットによるバリケードがなされているが、破けていてその用を成していない。
つまり入れるということだが、バスまでの時間があまり無いことと、このトンネルで日原側の坑口に抜けても
ただ空しいだけなので、入ることは控えた。
もしこのトンネルが抜けられたなら、この旧道はもっと沢山の人達に紹介されていただろう。
それが良い事か悪い事かは別として。
ここから先は、旧旧道ではなく昭和54年まで使われていた旧道である。
先ほどまでの荒廃がまるで嘘だったかのように、舗装された道が続いている。
しかしこの穏やかさは、嵐の前兆に過ぎないのであった。