崩れゆく、断崖の古路。

日原トンネル旧道を歩く2

2009.03.01

 

前回は、旧都道開通以前の道(部分)を紹介した。

今回からは、前回の訪問から1年後の20093月に、お馴染みスイッピ氏と共に訪れたときのことをレポートしていく。

スイッピ氏はこの探索の1週間後にはブログにてレポートを公開されていたのに対し、私ときたら公開まで4ヶ月以上開いてしまった。

 

いよいよ旧都道のレポート…と行きたいところだが、もう一つだけ読者様に見ていただきたいものがある。

今回は、この赤い円の範囲内をレポートしたいと思う。

 

ここは(現)日原トンネルの西側坑口附近である。

左の橋は「登竜橋」といい、現道はそのまま長さ凡そ1100mの日原トンネルの中へと続いている。

さて、写真の右側奥に青い道路標識が見て取れるだろう。

その道路標識が旧道のものであるのは、云うまでもない。

 

トンネルと旧道の分岐というものは、トンネルの坑口のごく近くにあるのが一般的なのだが(峠道などは除く)、

この日原トンネル新旧道分岐地点は、この写真を撮っている所なのである

とはいっても錆びた道路標識の方向には道は無く、数十メートルの虚空がただ続いている。

そしてその数十メートルの隔たりを経て、さらに奥へと道が続いている。

 

実は、嘗てはこの隔たりに橋(旧・登竜橋)が架かっていたのである。

この路肩の不自然な出っ張りは、嘗ての旧登竜橋の橋台だったのだ。

恐らく現日原トンネルを掘るに当たり、旧登竜橋の向きではルート設定に差支えがあったことから、

真っ直ぐ山に向かって新橋を作り、旧道へと向かう旧橋は落とされたのであろう。

 

橋が消えてしまったから、旧道へのアプローチは出来ないのだろうか?

そんなことは無く、ここにはこの旧登竜橋が出来る「さらに前の時代の道」が存在するのだ。

その道はこの写真の地点から左に分かれ、素直に山をトラバースし、トンネルの直前で現道と交差して

そこから旧道へと向かっているのである。この旧旧道のお陰で我々は旧道に進むことが出来るのだ。

 

さて、「路肩の不自然な出っ張り」を良く見ると、これまた古い手すりが存在する。

はてさてこの階段、一体何処に続いているのだろう…。

明らかに低い手すりと急傾斜の階段に、足を踏み外せば軽症では済まないなと思いつつ、我々は階段を降り始めた。

 

急傾斜な上、長年の堆積物が階段のステップを完全に隠していた。

さらに序盤は枯れ枝が我々の邪魔をするものだから、進みにくいこと限りない。

足で積もった落ち葉等を払いのけてどうにか進んでいくと、なにやら凄い光景が現れていた。

下のほうに、レールが見え始めたのである。

階段もまた九十九折れでそのレールの方へと向かっていった。

かなり興奮したが、それでも慎重に下っていった。

 

見上げれば現・登竜橋。

凡そ30年前までは、この写真の地点の頭上に橋が存在していたのだろう。

それにしても、完全に枯れ木色の世界である。

白と灰色と茶色以外の色があまり見受けられない…。

 

階段はまだまだ下っていく。

この地点から日原川までの比高は、凡そ100mほどであろうか。

川の音も聞こえず、聞こえてくるのは斜め上からの滅多に来ない車の音と、我々が払っている落ち葉が出す乾いた音のみであった。

 

ホッパーーー!!

我々を待ってくれていたのは、もとは綺麗なミルキーブルーの塗装であったのだろうが、

時の流れによりその体の半分を赤茶色にされてしまったホッパ車であった。

大きく傾いてはいるものの、レールもろとも撤去もされずに数十年も残っている姿に

私は大いに感激し、このホッパ車が少し愛おしくなった。

 

線路沿いに歩くと、この様な木橋が架かっていた。

枕木は朽ち果て、橋のメインとなっている2本の丸太も相当草臥れているが、まだ落橋には至っていない。

それにこのレール、素人の私が見た限りではかなりしっかりしていそうだ。

昨年訪れた水根貨物線のレールと比べても、さほど差が無い感じである。

 

まあこのレールの正体が、石灰石の採掘事業に関連しているのは、ほぼ間違いとみて良いだろう。

鉱山という世界は、とても奥が深いのである

 

…それにしても、この散らかり様は何だろうか。

棄てられている殆どのものが金属製であり、その大半が錆びきっている。

資材置き場か何かだったのだろうか…?

 

ここに存在するのは、レールとホッパ車と数多の廃棄物だけではない。

ここには、なんと惣岳橋へと続く嘗ての「日原街道」も通っていたのだ。

この道は日原集落からずっと現道の下方を進み、廃屋を経て、ここを経て、さらにはあの大崩壊地も越えて、

最終的には前回紹介した惣岳橋に至る道なのである。

 

下流の方を向くと、なにやら怪しげな穴が開いているではないか。

通路はどうにか確保されており、その穴の袂へ至るのは容易だった。

 

坑道でした。

穴の入口は厳重にバリケードされていた。当たり前か。

…ここから先へと進むには、奥多摩工業の作業員になるしかない。

 

柵の隙間からカメラを突っ込ませてみた。

奥のほうに、小さなランプが点灯していることが確認できた。

看板の新しさといい、脇に積まれているチューブ等の資材といい、やはりこれは現役の坑道だろう。

 

坑道入口からさらに下流方向には、このように明らかな道の痕跡が見て取れる。

この道を進んでいくとやがては惣岳橋まで至るはずだが、…とても私の技量では進めない気がする。

 

これ以上は進めないので、これをもって引き返すことにした。

 

ホッパ車の近くのコンクリートに置かれていたヘルメット。

ヘルメットに守られていたのは人間の頭ではなく、積もり積もった落ち葉であった。

いつ、だれが、どうして、ここにヘルメットを置き去りにしたのだろう。

…考えたくないことまで、考えてしまいそうだ。

 

下りるのが怖い階段は、やはり登るのも怖かった。

錆びて手すりを使い、枯れ枝の波にもまれ、現都道に戻った。

15分の、「時代の墓場」への墓参りだった。

 

旧旧道を利用して、いよいよ日原トンネル旧道へとアタックする。

まずはこれ、1979(昭和54)年竣工、延長1107mの「日原トンネル」である。

このトンネルによって、長きに渡り日原の交通の難所となっていた日原川及び「とぼう岩」との戦いに終止符が打たれた。

このトンネルの大部分は、その真上が採石場となっている。

坑道があるからなのかどうかは分からないが、このトンネルはほぼ全線に渡りカーブを繰り返している。

それ故出口がなかなか見えてこないため、車でここを超えるときは距離以上にこのトンネルの長さを感じさせられる。

ただこの日原トンネルも、竣工からはや30年。大分コンクリートも草臥れてきたようである。

 

さて、トンネルの入口附近に2mほど道の路面の色が変わっている箇所がある。

そこが旧旧道、ひいては旧道への入口である。

 

…というわけで入口だ。

「立入禁止」と書かれた黄色のテープが、引きちぎられていた。

これは…引きちぎって入ったという人がいたということに他ならないだろう。

もしかしたら、車で入ったのかもしれない。

ただし、旧道はすぐに車で進める状態ではなくなるので、そんな事をしてもあまり意味は無いと思うのだが。

 

午前は晴れていたのに、午後になるとどこからか厚い雲がやって来て青空を消していった。

見上げれば、雪のラインが低い。

…つうか、大崩壊地、越えられるのか?

 

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