崩れゆく、断崖の古路。 日原トンネル旧道を歩く(1) 2008.03.23
“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”
日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。
東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している
人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。
第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、
昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。
そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。
時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。
そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。
山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。
今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。
ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。
日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)
だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々
(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。
では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?
これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。
日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。
なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。
そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。
ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。
やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。
ただやはり「とぼう岩」は超えられない…。そこで、U字谷の部分を大きく迂回するルートをとった。
以後江戸時代まで、一度はルートを変えはしたものの、やはり「とぼう岩」を避けたルートをとっていた。
江戸時代になると、日原の奥にある鍾乳洞(其の頃は「一石山」などと呼ばれていた)が発見され、山岳信仰の地となった。
続々と日原へやってくる礼拝者の為に、日原はアクセスルートを整備しなおす必要が出てきたのである。
ここで、初めて「とぼう岩」に鑿が打たれた。そして難工事の末、ついにとぼう岩を越える道が完成したのだ。
以後昭和まで、ルートは何度も変わったが、何れも「とぼう岩」を断崖絶壁の道で越えていたのだ。
その後は前述のとおり、山は削られ、両岸に対となって聳えていた「とぼう岩」の片割れ(左岸側)は消えてしまった。
そして遂に1979(昭和54)年この「とぼう岩」附近一帯をショートカットする「日原トンネル」が掘られ、それまで使われていた
崖沿いの道は廃道となってしまった。無論、今まで使われていた数多の道も皆廃道となっているのは、云うまでも無い。
今回は、日原トンネルが開通するまで使われていた1979年まで使われていた旧道をメインにレポートしていきたいと思う。
ただその前に、図の赤線部分、旧道が開通するそれよりも前に使われていた道の一部を紹介したい。
2008年3月に、いざ「とぼう岩」に挑まんと友人3人と訪れ結局果たせなかった、その記録である。
2008年3月の訪問では、あまり写真を撮っていなかった。
この「重要な地点」も、2009年3月の訪問によりようやくカメラに収められた。
ここが、現在の日原街道と、昔の日原街道が分かれる地点である。
左を行けば、狭いが楽々と進んでいける道。右を行けば、歩行者をも容易に通らせない、ボロボロの道である。
右手には駐在所があったが、中に人は居なかった。
先程の分岐を右に進み坂道を下っていくと、やがて駐車場らしき広場が現れる。
その傍には小さな階段があり、それを下るとこの写真の地点に至る。
地元の人たちの作業道などに使われているのか、車こそ通れないものの普通の道である。
…あまり、「歴史の道」という感じはしなかった。
写真のゲートは、どうやら鹿よけのゲートらしい。
しかし、私にはこのゲートが、日原集落の入口の門であるかのように思えた。
実際このゲートを過ぎると、人家は無くなり、山の路となる。
進んでいくと、道が電光形を描きジグザクと下っていくところがある。
そのジグザグ道の途中に、作業道らしき踏み跡が残っており、帰りは其れを使わせてもらった。
ご覧のように、九十九折れ地点を過ぎると道がかなり荒れてくる。
写真左にある木製の桟道は、それ自体が朽ちかけていてかなり怖かった。
さらに写真右側。今でこそ如何にも新しい桟道が架けられ、ご丁寧にロープまで張られているが、
この探索のつい1〜2年前までは桟道が無かったというのだ。
もともとは左のような桟道がかけられて、それがある時崩れて落ちてしまった…のだろうか?
しかし、それでも新しく桟道が作られているあたり、今でもこの先でなにか作業が行われている、ということなのだろう。
…画像があまり無くてスミマセン。
再び朽ちかけた桟道を渡っていくと、吊り橋が現れた。
この橋、銘板(らしき木板)には「無妙橋」と書かれていた。が、どうやらこの橋の本名は「無妙橋」ではないという。
本当の橋の名は、ずばり「日原橋」。日原の交通には欠かすことのできない橋であったことを、証明しているかのような名前である。
ご覧のとおり、この吊り橋も朽ちかけている。(因みに、渡ってから撮影した。)
鉄板が渡されてはいるものの、肝心のワイヤーも完全に焦げ茶色に変色しており、いつ橋が墜ちてもおかしくない状況だった。
…もちろん全員渡った。勿論一人ずつだが、それでもその度に橋が軋んだことは云うまでも無い。
さて、この無妙橋もとい日原橋。2008年に架け替えられたという噂を聞いた。
もし本当なら、是非この目で確かめてみたいものである。
橋の袂には、ご覧のとおり使われなくなったコンクリートの建物がある。
この施設、地面から凡そ7mほどの高さに作られおり、どうやら水位観測所の跡のようだ。
しかし、肝心のアプローチが全くといって出来ない。木の枝を使えば何とか行くことも出来るだろうが…。
嘗ては、梯子でもかかっていたのか、或いはこの古道から簡単な橋が架けられていたのだろうか。
対岸を望むと、随分と高いところに道が通っていることが確認できた。
実はこの写真、これからレポートする廃道(旧都道)が写っているのだが、分かるだろうか。
右側に僅かに見えているコンクリートの路肩が、まさにそれなのである。
橋を越えても、道はなお鮮明であった。
進んでいくと、道路が崩れている箇所があり、しかしまたしてもご丁寧にロープが張られていた。
…何故こんな整備状況が良いのだ?
道端に、写真のいかにも古そうな看板が落ちていた。
「日原」と「氷川」の字は読み取れたが、ほかに何が書いているのかが分からなかった。
という訳で、少しネットで調べてみたところ、このような感じだった事が分かった。
このように、楷書体と手書きによる看板だった。(このうち、手書き部分がほぼ消えてしまっている。)
この看板が設置されたのは、恐らくかなり昔のことだろう。もちろん当時は通行可能であったに違いない。
しかし後に、とぼう岩の細道は崩れ人を通さないようになり、手書き部分が書き加えられたのだろう。
尤も、書き加えられてからも相当年月が経っていそうなのだが…。
…というか、「タル沢古道」とはなんぞや?
どうやらタル沢古道は、現在位置の上方にあるタル沢尾根に向かう道らしく、タル沢尾根を進むと石尾根(七ッ石山や雲取山を経由する尾根)に出るという。
それにしても、タル沢古道という名に引っかかりを感じる…。
さて、古道を進んでいくと、どういう訳か資材運搬用のモノレールが現れた。
何の工事をしているのかは良く分からなかったが、近くには資材が積まれていて、思いっきり作業中な感じであった。
作業員こそ居なかったものの、いまにもヌッと現れそうであった。
我々は、いち早く河原に下りた。河原に下りると、上の方から作業員たちの話し声が聞こえた。危ねえー…。
恐らく新しい桟道やロープなどは、この工事の際に作られた可能性が高そうだ。
という訳で、しばらくは河原を進むことになってしまった。
対岸が、とにかく凄いことになっていた。
幅100m超、高さ200m超、斜度30〜60度の大崩壊地である。
今から言ってしまえば、この後に紹介する日原トンネルの旧道を歩きとおすには、ここを横断するしか方法がない。
…横断できるのかこれ。
我々は、大きな岩が重なり合っている河原を進んでいった。
しかしいつまでも河原を進んでいたのでは、肝心の道を見つけることが出来ない。
そこである程度進んだところで、友人1名と斜面を登ってみることにした。
山の斜度は凡そ45度。足元がかなりガレていた為に、相当登り辛かった。
細い木の枝にしがみ付きながら這い蹲って40m程登っていくと、何とも古びた石垣を発見した。
ここまで来て、漸く私はこれが歴史の道であることの実感が湧いてきた。
しかし石垣はあったものの、肝心の「道」が瓦礫に埋もれて存在しないのである。
しょうがないので、ここから下流へ斜面をトラバース(横断)することに決めた。
下で待っていた2人にも、河原を下流へと進んでもらうことにした。
しかし、30m程進んでも道らしき痕跡(平地)は存在しなかった。
さらにはトラバースする上で重要な手がかりとなる木の枝も疎らになってしまい、この先進むことも出来なくなってしまった。
「もう少しだけ進みたい…」と木から手を離し進んでみると、瞬時に私の体は重力による下降を始めた。
3m程滑り落ちたところで何とか木の枝にしがみ付き、河原まで滑落することは何とか免れたが、これではとても進めない。
私は3m上方の友人に「河原まで降りた方が良い」といって、それぞれ斜面を降りて(滑り降りて)いった。
滑り降りること約35m。滑り台のように尻もちをついて滑っていった訳だが、滑り台とは違い全くといって良いほど減速が出来ない。
結局二人とも無事に河原まで滑り降りることに成功したのだが、ここで友人に悲劇が起きた。
…滑っている途中に、携帯電話を無くしたようである。
即座に皆今滑り降りた斜面に取り付いて探し始めたが、いくら探しても見つからなかった。
今も日原の山中に、錆びた姿で、主に拾われるのを待っているのだろうか…。
我々は、これより先に進むことを断念した。
しかしこの断念した地点、古道巡りに於ける良いチェックポイントとなっていたのだ。
それがこの、「惣岳橋」の橋台である。写真に写っているのは北岸側の橋台。
橋台しか残っていないものの、嘗ては相当立派な橋であったことを想像させた。
惣岳橋は、今まで歩いてきた古道より新しい道に架かっていた橋である。竣工は昭和初期頃だという。
今まで歩いてきた古道は歩行者位しか通すことのできない道であったが、この橋及び橋から日原へと延びる古道は、
道幅2m弱で荷車程度なら通すことの出来る道であったというのだ。
そして無論、北岸を通る道の宿命とでもいうべきか、やはり先程の大崩壊地によってその区間は消えてしまっている。
因みに「日原界隈趣味探索」で最後に紹介された廃屋、あれらもこの道の上に建てられている。
一方こちらは南岸側の橋台である。
ここで、今まで歩いてきた「かなり古い古道」と「少しだけ新しい古道」が合流する。
ここから先とぼう岩の方へと進むには、この2m幅の道を進んでいくことになる。
ここまでの成果が成果だっただけに、是非先に行ってみたい…。
…が、それは無理な相談。携帯電話を無くしてしまった以上、これ以上の前進は不可能だ。
あの橋台にある、「白いもの」は何なのだ?
おもしろきもの そのF
橋台に括られた、不思議な標識。
川を歩いていく者の為の標識だろうか?
因みに惣岳橋跡から下流に少し進んでいくと、小さな滝が現れた。
これは石尾根を源流とする「タル沢」が、日原川に流れ込む地点である。
古道は、このタル沢を越えてさらに下流へと進んで行くわけだが、橋らしきものを確認することは出来なかった。
恐らく橋は架かってはいたのだろうが、数十年の年月が橋の存在を消してしまったのだろう。
15時10分、我々は来た道を戻り始めた。
河原を進んでいくと、先程渡った日原橋が現れた。
下から見ると、その朽ち具合が一段とはっきり分かる。
この橋を無事に渡れた我々は、運が良かったのかもしれない。
橋をくぐって少し進むと、川に橋が架けてあった。
尤も河原と、数メートル先の対岸の河原を繋ぐとても簡単なつくりの橋なのだが。
恐らく、先程の作業員たちはこの橋を渡って作業現場に向かっているのだろう。
橋を渡ると、山の斜面に踏み跡を発見した。
それを進んでいくと、やがて古道が九十九折れとなっている所に出る。
あとは古道を戻り、ゲートを潜り、東日原のバス停に到着したのが15時50分。
少しずつ暗くなっていく空の下、私たちを乗せたバスは日原トンネルに吸い込まれていった。
最後に、タル沢合流地点から日原川下流を臨む写真を。
対岸は険しい崖となっており、そこに一条のラインが走っていることも確認できる。
どこか不自然なあの尾根の向こう側は、採石場となっている。
さて、画像中央の「白い紐のようなもの」は何なのか?
ガードレールですね、あれは。
…あっちも、相当破壊されておりますな。