崩れゆく、断崖の古路。

日原トンネル旧道を歩く5

2009.03.01

 

新道と分かれてから凡そ45分が経過した。

それでも進んだ距離は1km弱であるから、とんでもないスローペースに思われるかもしれない。

が、実際は休憩を殆どせず、ただ黙々と進んで行きこの時間であった。

断崖の廃道は、急いで進まんと欲する我々の想いとは裏腹に、ますますその荒廃の度を増していった。

 

いよいよ、この旧道探索における核心部分に入る。

尤もこの核心部分というのは、私にとっての核心部分であって、普遍的なものではない。

路肩法面共についに断崖絶壁となり、この幅4m程の「道」のみが水平な場所となっている。

植生も乏しく、この路上に雑草が生えている他で、遠く対岸の植林まで緑を見出すことはできない。

 

路肩には、破壊されつつもガードロープが現存していた。

法面には、人工物が何も無い。

あるのは青い崖と、根性のある樹だけだ。

 

この写真の目線が高いのは、崩落の上に立っているからである。

土砂の高さは2m程だが、それでも満遍なく路面を埋めてしまっている。

写真にもあるが、5m程先に落石防護ネットが法面に掛けられている。

そのお陰かどうかは分からないが、その区間だけ僅かに舗装が顔を出していた。

 

しかしそんな落石防護ネットも、管理する人間が居なければ、早々に役立たずとなってしまう。

もはやネットはその本分を尽くすことを諦め、グシャグシャになったその屍を晒していた。

自らを邪魔するものを破壊し尽くした落石は、遠慮なく我々にも降りかかってくることであろう。

早々に通過した方が賢明であることは、明白である。

「それでは、こんな所に来なければ良かろう」と言う声が飛んできそうだが、それは全くの正論である。

正論であるが、この探索の楽しみには変えられ難い。困ったものだ。

 

さて、これは第1回の最後に紹介した写真である。

この崖に刻まれた一条の道が、現在レポートしている区間だ。

真っ白なガードレールが、力尽きぶら下がっているのが良く分かる。

 

下から見てだらしないガードレールは、上から見てもだらしなかった。

そして、よく墜落せずに残っているものだな、とも思った。

路上に残っている部分は、目視できる限りでは2m弱に過ぎないが、ぶら下がっている部分は20m近くある。

 

それにしても、今までがガードロープであったのに対し、ここだけ何故かガードレールである。

一般的にガードレールの方が強靭であり、またこちらの方が高価である。

ひょっとしたらこれは、容赦なく破壊の斧を振り回す自然に対する行政の、必死の抗いだったのかもしれない。

 

…ああ、もうこの道は駄目だ。

何トンもあろう大岩がごろごろ、無残にも路上で沈黙している。

「時間」というものの、大きさを知った気がした。

 

流石に大岩だけあって、大抵の岩は我々が乗ってもぐらつくことはなかった。

が、中にはやはり足を置いた瞬間動くものもあり、その度に私は戦慄を覚えた。

バスの時刻も相まって私の心中は穏やかでなく、この様な場所を越えるのに必要な冷静さと言うものを

失っていたのだな、と、今更になって思う。

 

大岩を登ると、当たり前であるがその先の光景が目の前に広がった。

そこには、ほんの少しの安息を挟み、さらに規模の大きな崩落が存在した。

土砂はいよいよ高く積みあがり、もはや完全に山の斜面の一部となりかけていた。

 

後からスイッピ氏が私に問うた。「これは…どうなのか?」

「…行ける所まで行きたいなァ」と私。

道はあるのだ。いくら困難に見えてもさりとて我々に往けぬ事はない。

そんな短絡的で愚かで高慢な考えが、私の頭の中を支配していた。

 

高さ3mの岩山から、再び僅かに顔を出した舗装へと降りた。

安息はたったの15mで、潰えた。

 

エッジの鋭い岩でなく土主体の崩落であった為なのか、落石防護ネットは破れずにいた。

その代わり、それは此れでもかと云わんばかりに路上に張り出しており、狭い幅員のほぼ全てを支配していた。

どのようにここを攻略するのか。その答えはここに立ったとき直ぐに分かった。というよりそれしかない。

正解は、右へ行く。防護ネット沿いに路肩を「へつっていく」のである。

無論そこには明瞭な道はなく、気持ち踏み跡があるかないかという程度であって、進むのは非常に心許ない。

しかしどうにかこうにか手足を使い、それでも前進する事は可能であった。

若干不安そうな顔をしているスイッピ氏も、同様にここを突破した。

 

そして、その先はネットが切れてこの様な状況となっていた。

一見簡単そうにも見えなくもないが、実際は半ば土主体のとても崩れやすい斜面である。

さらに「下」は、遮る物無くそのまま日原川の崖へと続いている。一方の「上」は、今にも崩れてきそうな岩の山。

ここで何かあろうものならば、顛末は…。

 

ただ、恐らくこの写真を見ても、そこに何となく通う一筋の踏み跡が確認できるであろう。

結果、私とスイッピ氏とで計4回この踏み跡の恩恵を授かった。

もしこの「蜘蛛の糸」が無かったら、ここは恐怖心から渡ることが出来なかったに違いない。

 

斜面を渡ると、アスレチックゾーンに突入する。

ここでは破壊され膨らんだ落石防護ネットと、法面の間の狭い隙間を進んでいく。

この写真は反対方向に撮影したものだが、この区間は約30m続いた。

最後にネットが都合よく引きちぎられており、そこから脱出が可能である。

 

 

その先には、静穏を取り戻した旧都道が待っていてくれた。

…本当に、今までの荒れ様が、まるで嘘のような変わりぶりだ。

 

路肩から、今までの行程を振り返ってみる。

右に見える「大きな」崩壊地は、序盤の大崩壊地でなくその先の崩壊地(「小崩壊地」という言い方には語弊があったかもしれない…)である。

ここからでは樹木に隠れて見えないが、一番右の方には先ほどの断崖絶壁が控えている。

一方の対岸であるが、ここから見てもかなりの急斜面であることが分かる。

これも見えないが、左手の植林と落葉樹との境界線あたりにあるのが「タル沢」で、第1回で前進を断念して地点である。

広いようで、案外コンパクトに収まっているものである。

 

安定を得た道は、左カーブを描く。

終わりも近づいてきた。

 

カーブの突端に設置された、「あるじ」を失ったポール。

氷川側から来た運転手はこのブラインドカーブを過ぎて、難所を目の当たりにする。

日原鍾乳洞観光に来たパパさんは、思わずハンドルを握る手に汗をかく。

日原へと人を運ぶバスの運転手は、いつものように華麗なハンドルさばきで走り去ってゆく。

1979年のある日、その日常の光景が消えた。

以来動くものを殆ど見なくなった「あるじ」は、そこに朽ちるまで居座ることに飽きてしまったのであろうか。

 

右カーブの後、すぐにまたブラインドの右カーブとなる。

ここにも、輝きを失ったカーブミラーが立っていた。

路面は一面薄く落ち葉に覆われ、まるで褐色の絨毯を引いたかのようである。

地勢が穏やかになって来たのだろうか、道幅が更に広くなった。

しかしこちらの穏やかさとは対称に、対岸には何とも形容し難い大絶壁が、その寒々しい姿を晒している。

その大絶壁こそが、嘗て日原を秘境たらしめていた「とぼう岩」なのである。

 

さて、奥の掘っ立て小屋らしきものは何であろうか。

 

  おもしろきもの そのG  

トタンで作られた物置らしき小屋。

一応ガラスの窓もあるのだが、壁は消え、もはや倒壊寸前である。

中にはロープ等が放置されていたが、どう考えても今も使用しているとは思えない。

 

少しだけ路面が荒れてきた。

が、そんなことよりも目を引くのがこの石垣である。

モルタルなんぞ使われていない乱積みの石垣は苔むしており、石と石の隙間からは細い木が何本も生えていた。

この手作り感溢れる石垣が、まだ日原が穏やかな村だったころの面影を残しているように思えた。

 

向こうがなにやら青白い。

 

 

終点。

最後のカーブから100m進んだであろうか。

道は、そこでぷつりと途切れていた。

普通このような旧道に終点は存在しない筈なのだが、そんなことはお構いなしにぷつりと途切れていた。

 

此れより先の旧都道は、もはや誰にも見えざる思い出の道であった。

 

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