奥多摩に眠る、隧道と橋梁たち

水根貨物線を歩く1

2008.12.13

 

東京都の西端に位置する「奥多摩」は、自分の大好きな場所の一つだ。

奥多摩駅のすぐ北に位置する奥多摩工業の工場、日原(安比奈線の章を参考)の石灰石採石場へと続くトロッコ線、

日原に続く道の旧道・廃道、あちこちに点在する古看板や年代物、奥多摩湖へと続く廃線…などなど、「ある種の人々」にとっては、

奥多摩は「ワンダーランド」なのである。こんなに「萌え」スポットが密集している地帯は、関東にはそうそう無いと思う。

 今回は、其のうちの一つ、奥多摩湖へと続く廃線「小河内ダム工事専用線(通称・水根貨物線)」を紹介する。

 

 水根貨物線は、逼迫する首都の水不足を解消するために作られた、多摩川の上流に位置する「小河内(おごうち)ダム」の建設に

あたって敷設されたものである。線路幅は1067mm、全長6.7kmのうちにトンネル(当時は「隧道」といった)23本、橋梁23本という

大変険しい所に敷設されていて、とても仮設の路線とは思えない豪華さである。当時はここをSLがダムの資材などを積んだ貨車を

引いて走っていたという。

 

 小河内ダムは、提高が148mにも及ぶかなり規模の大きなダムである。起工は1937年で、戦時中の工事中断を経て竣工は1957

(つまりこれが水根貨物線の廃止時期では無いかと思われる)。そして、それに因って出来たダム湖(通称・奥多摩湖)は、嘗て存在した

「小河内村」の主要地帯ほぼ全域を水没させた。無論村からは激しい反発があったのだが、其れも空しく村は沈んでしまった。

今では、ダム附近に「水と緑のふれあい館」なる施設があったり、湖畔には桜が植えられておったり、ドラム缶橋なる浮き橋が

存在したりと、東京(都)の観光スポットの一つとなっている。

 

 因みに、当路線は、嘗て日本テレビで放送されてい「冒険!CHEERS!!」という番組の「廃線復活」というコーナーに登場している

その企画は、荒れ果てた廃線(水根貨物線)を列車が走れる状態にするという目的であったため、実際に一部区間は綺麗になっている。

だが廃止(実際は休止)から50年という年月は、放置されたトンネルや橋を「廃なモノ」に成熟させるのに十分な期間だったようだ。

 

 この路線は「廃止」されたのではなく、一応「休止」という扱いとなっている。その為なのか、現在もほぼ完全な状態で残っている。

そして当路線、一時期は観光路線として復活させようという動きがあり、西武鉄道が所有していた時代もあった(現在は奥多摩工業所有)。

しかし現在は不況のあおりか、話が出ているだけでそれ以上の進展は無く、現在は時折廃線ファンや物好きが訪れる場所となっている。

(安比奈線と立場が良く似ているが、こちらの方が現存度が高い。)

 

 今回は、全区間のうちの凡そ6km弱を、リンク先の「西武新宿線(以下略)」の管理人「スイッピ」氏と共に歩いてみた。

 因みに恐らくほぼ全区間が「立ち入り禁止」だと思われるので注意されたい。

 

※たて構図写真が多くなっております。見難くてすいません…。

紅葉シーズンも終わり、寒々しい景色の中、201系「四季彩」は終点の奥多摩駅に到着した。

四季彩はてっきり廃車になっていたと思っていたので、偶然の出会いに私は喜んだ。

今回は、この奥多摩駅から奥多摩湖までを歩こうと思う。

バスだと僅か15分程度で行けてしまう距離なのだが、歩くと…何時間かかるのだろうか。

ともかく、午前11時半、取材開始である。

 

まずは、当路線の目玉「日原川橋梁」へと向かうべく、奥多摩駅から北に向かって進む。

奥多摩駅の北側に架かる「北氷川橋」を渡り、突き当りを右に進むと奥多摩工業の工場が見えた。

その見るものを圧倒する姿と、プシュープシューと音を出すそれは、

まるで「生きているもの」の様に思わせた。

 

さらに進むと、日原川を「夫婦橋」という橋で越える。

橋を渡ると道は左に折れており、その突き当りには

なんともあっけなく廃線跡が出現する。

ぽっかり穴を空けたトンネルと、そこから伸びる巨大築堤…。

今すぐにあの坑口へ行きたいと思ったが、あまりに目立ちすぎるのと危険なので止めた。

 

ここから道路は少しの間線路沿いに走る。

と、線路のほうは左にカーブして、日原川橋梁に差し掛かる。

その線路と道路がクロスした地点から線路に登れるのだが、登った先が完全に民家の庭と

なっており、そこの住人(居間が線路に面している)と嫌でも目を合わす羽目になる…。

以前7月にも登山部の活動で奥多摩に来ていて、そのとき線路に登ったのだが、

居間で寛ぐ住人と目が合ってしまい、カーテンを閉められてしまった。

この事により、もう二度と線路に上ることが出来なくなった…。

なので、今回は先が長いこともあり、この地点で引き返した。

 

これは、その7月に来たときの写真である。

写真に写るトンネルは、「氷川第一隧道」といい、抜けた先は奥多摩工業の工場附近だ。

その為か、坑口には厳重なバリケードがしており、人の進入を硬く拒んでいる。

 

尚その時、私は日原川橋梁の上を少しだけ歩いてみようと思ったのだが、足場が悪いのと、

橋の上はあまりに目立ってしまうことから断念した。

 

日原川橋梁が道路を跨ぐ地点、ここが線路への(恐らく唯一の)アクセスとなる。

コンクリート自体は古びてはいるが、さほど綻んではおらず、まだまだ列車を走らせることが出来そうであった。

尚、この橋の銘板は見つけられなかった。

 

日原川橋梁は、コンクリートのアーチ橋である。

その美しい姿に、誰もが目を留めるであろう。

奥多摩駅からやって来た線路は美しい橋を渡り、左の山に突き当たる。

それを氷川第二隧道で抜けて、一気に多摩川の左岸に出る。

この区間を巡ることは、相当困難であることが予想されたので、

もう少し進んだところから線路を歩いていくことにした。

 

我々は取り敢えず日原街道に出て、青梅街道に向かって歩いた。

と、青梅街道との交差点附近に今はレアな存在になった「白看」が…。

やはり、奥多摩は「ワンダーランド」なのであろう。

 

青梅街道に出たら、少しだけ奥多摩湖の方に向かって進む。

線路は相当高いところを通っているはず(わざわざ遠回りしてまで標高を稼いのだから)なので、

少々山を登らなくてはならない。なので、私は右のほうを向き、上へ登れる道を探して歩いた。

少し進むと、「むかしみち」と書かれた案内図がある交差点があり、右へと道がのびていたので、迷わず「むかしみち」に入った。

この「むかしみち」、青梅街道の旧道であり、ハイキングのコースの一つとなっている。

 

「むかしみち」は急坂を登っていく。少し疲れてきたところで、上から男性が降りてきた。

男性は我々に、「何処行くの?」と訊いてきた。どうやら地元の人らしい。

私が「トロッコの線路跡まで」と言うと、「ああ、この先にあるな」と男性は言った。

丁度色々訊けるチャンスなので、奥多摩湖まで何時間かかるかと訊いてみた。

男性曰く「あんた達の足だと、1時間半ってとこかな。あとトンネル行くのなら、暗くて危ないから、2〜3個にしとけ(笑)」とのこと。

私は三時間以上かかると踏んでいたので、予想外の短さに驚いた。

男性は「まあ、頑張れや」と言うと、また坂を下っていった。

 

坂を登りきると、我々の期待していた光景が現れた。

 

出た。廃隧道。

線路もきっちりと残っていやがる…。

 

そこには、苔むした坑口が存在した。氷川第三隧道である。

50年の時を経て、今もなおその存在感を十分に醸し出していた。

 

入れば良かったのに、我々はこのトンネルに入らなかった…。

どうやらトンネルを抜けた先には、トロッコが存在したというのに。

 

振り向くと、やはり線路が続いていた。更に鉄橋まであった。

但し線路は、しっかりとバリケードが張られており、勿論「立入禁止」となっていた。

 

ここから先は、マニア陶酔の世界となる。

それと同時に、自己責任の世界ともなる。

 

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